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仏教文化におけるメディア研究会 第2回月例会 (通算第5回)

場所:2013年5月29日(水)18:30より、大正大学綜合仏教研究所研究室1
出席者:森,金,嶋田,藤近,清水,重野,高橋,大澤,シャウマン教授(顧問)


「仏教文化におけるメディア」研究会(仏教文化メディア研究会)の第二回月例会を開催しました。

今回は森代表者により、本研究会が対象とするメディアの定義づけと、研究会の目的についての確認が行われました。

本研究会の月例会における発表は、原則としてインターネット上で公開しませんが、今回は、本研究会の趣意をお話しましたので、基本的な確認事項としてご紹介させていただきます。


次回は、藤近研究員のダルマに関する発表があります。



2013年5月29日(水)
大正大学総合佛教研究所


メディア研究について


大正大学総合佛教研究所
研究員 森  覚



1 メディア研究とは
メディア研究とは、媒体によって生じる社会的コミュニケーションに着目し、様々なメディアの情報内容、歴史、性質、機能、効果などを取り扱う学際的な研究分野である。
社会科学及び、人文学の流れを汲むこの分野では、カルチュラル・スタディーズ、修辞学、哲学、文学理論、心理学、政治学、政治経済学、経済学、社会学、人類学、社会理論、美術史および美術批評、映画理論、フェミニズム理論、情報理論などの幅広い研究手法が用いられている。



2 ロマン・ヤコブソンのコミュニケーションモデル
ロマン・ヤコブソン(1892–1982年)は、1956年の講演をもとにした論文「言語学と詩学」において、コミュニケーションの六機能図式を発表した。そこでは、コミュニケーションに不可欠な六つの因子である発信者、受信者、メッセージ、コンテクスト、コード、接触を挙げ、その一つ一つに相異なる言語機能が対応していることを指摘し、以下のような図式化を試みた。


           E.コンテクスト
           C.メッセージ
A.発信者 ━━━━━━━━━━━━━ B.受信者
           D.接触
           F.コード


A.発信者
情報を発信する側。話し手。

B.受信者
情報を受信する側。聞き手。

C.メッセージ
伝達する情報内容。

D.接触
コミュニケーションにおいて発信者と受信者の間を結びつける物理的接触。具体的には、音声、ジェスチャー、スキンシップ、あるいは印刷物や映像などのメディア。

E.コンテクスト
コンテクスト(context)とは本来「テクストとともにあるもの」(< con- ‘together’ + text)。一般的には、ことばの意味を決定する前後の文脈。文脈,前後関係,状況,背景,環境,コンテクスト,コンテキストと訳される。

言語学においては、コミュニケーションが成立する要素であり、会話が成り立つ「発話された状況、語られている状況」を意味する。すなわち、言葉の意味を定義する背景や状況がコンテクストと呼ばれるものである。発話者にとってコンテクストは、メッセージをコード化してテクストを成立させる環境であり、受信者にとってはコードからメッセージを解釈するために想定される可能世界である。

コミュニケーションの成立には、複数のコンテクストが関与しているものの、コンテクストの対象となりうるものは、広範囲に及ぶため、明確な概念や対象範囲を定義することは不可能とされる。


【コンテクストの種類】

① 機能に基づくコンテクスト
a. 社会・文化のコンテクスト:認識や行動を支配する価値観・制度・慣習などの社会構造や文化、または社会的なやりとりにおいて目標によって異なる行動類型を生む領域(genre)。

b. 状況のコンテクスト:言語表現に違いをもたらす言語使用域(register)としての活動領域・役割関係・伝達様式。

② 臨場的コンテクストと(半)恒常的コンテクスト
a. 言語表現が発せられる現場に関与するコンテクスト:発話の時間・場所、話題、参与者言語表現とコンテクストの人数・関係、場面の雰囲気、話し手・聞き手の意図など。

b.( 半)恒常的コンテクスト:話し手・聞き手の条件(性別・年齢・出身地・教育)、知識、価値観、信念体系、社会状況など。

③ 言語的コンテクストと非言語的コンテクスト
a. 言語的コンテクスト:照応・指示・省略・接続・関連語句などの結束性(cohesion)、そのほか統語的・意味的な前後関係の一貫性(coherence)や関連性(relevance)など。

b. 非言語的コンテクスト:言語(表現)に直接関与しない発話の時間・場所、発話参与者や社会の条件、知識、価値観、信念体系、文化など。

(児玉徳美『言語のしくみ―意味と形の統合』 大修館書店 1991年 pp.130-151.)

F.コード
コード(符号)とは、伝達するメッセージを、語彙や文法、図像学といった、体系的な規約に従って配列された記号列の集合である。またそれは、恣意的な記号(規約記号)の記号表現と記号内容を結ぶものである。

ヤコブソンは、社会的あるいは個人的な種々の派生形を下位コードとし、それらが階層的に体系をなすものとして「コード」という概念を考えている。

コードには、複数の下位コードが存在する。たとえば一つに数えられる言語には地域、性、階級などの違いによって社会的に異なるコードが数多く存在する。また、どの話し手も、社会的な立場、おかれた状況、心理状態、嗜好などによって、異なる個人的なコードをいくつも持ち合わせている。

言語の使用者は、複数の社会的・個人的コードを個々の状況に応じて、さまざまに変換させながら、発信者と受信者のコードが完全に一致することのないコミュニケーションを成立させる。そのため、発信者は受信者のコードを推測し、「相手のように話そうという志向」に基づいて、聞き手に自分を順応させながら相互理解を得ようとする。

ヤコブソンは、コミュニケーションは異なるコードを有するもの同士が作り上げていくものと考えている。コミュニケーションにおいて誤解が生じたり、相互の理解に多少のずれが生じたりして首尾よくいかないのは当然のことという前提があった。(解釈のズレ)

(朝妻恵里子『ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論―言語の「転位」―』pp.198-199.)



3 仏教絵本の読み聞かせを事例として
(1)ヤコブソンモデルによる読み聞かせ

         E.コンテクスト:① 母親と子どもの親子関係
                   ② 特定宗派の檀信徒としての母親
                   ③ 寺院からの宗教に関する知識
                   ④ 子どもへの話しかけ
                             ・・・・・等々

         C.メッセージ:宗祖の生涯

A.発信者:母親  ━━━━━━━━━━━  B.受信者:子ども

         D.接触:① 印刷物である絵本
               ② 読み聞かせする母親の声
               ③ 身振り手振り
               ④ 子供を膝に乗せる等のスキンシップ

         F.コード:① 日本語
               ② 図像学的修辞法(図像の読み方)

(2)この他に着目すべき点
① 情報伝達をめぐる発信者の心情・意志。たとえば、子どもに仏教的知識を与える母親の意図。
② 情報伝達に関する受信者の興味関心。たとえば、子どもが興味関心持っているかどうか。
③ 発信者から伝達されるコード化されたメッセージを、受信者はどのように読解するか。
④ 受信者の解釈によって情報はいかに変化するのか。


4 仏教メディアの定義
仏教メディアとは、不特定多数の人々に向けて仏教関連の情報を表現し、伝達するためのあらゆる媒体と、それによって生じる仏教に関連した総体的なコミュニケーション機能を包括する概念である。また、媒体の性質を定義した場合、次の通りになる。

(1)狭義の仏教メディア
仏教教団による教化を目的として再話/創作された情報を伝達する媒体。
(2)広義の仏教メディア
仏教を素材として再話/創作されたメッセージを情報する媒体。



5 本研究会の趣旨
(1)研究目的
釈尊によって説かれた仏教の教え(法・ダルマ)は、当初、口伝による継承がなされていたが、その後、次第に仏塔、仏足跡・法輪・菩提樹などの象徴的表現、仏教聖典や仏像といった、今日でいうところのメディアによる布教が行われるようになる。仏教は、メディアを利用することにより、教理の保存と継承、大勢の人々への布教を実現し、古代インドから東南アジア、中国、韓国、日本、西欧諸国にまで教線を拡大していく。
現代においては、新聞、雑誌、書籍、テレビ、ラジオ、映画、インターネットなどのさまざまな媒体があり、メディアは、仏教を伝える手段として益々不可欠なものになっている。そこで表現される仏教のイメージは、きわめて多様性に富むものとなっているが、こうした表現もまた、仏教が歴史的に積み上げてきたイメージ表現の蓄積による産物であり、その源流は、古代インドのメディアにまで遡れる。そこで本研究は、古代インドから現代にいたる仏教メディアの展開とその表現を考察し、時代や地域、共同体ごとに形成されてきた仏教、とくに仏陀のイメージ(表象)について、仏陀信仰の文化的展開をふまえながら、解明していくことにする。
本研究が考察対象とする仏教メディアは、(1)開祖である釈尊の生涯と教理を記録して、人から人へと継承させる媒介物であり、(2)人々を信仰へと導く布教の手段として定義するものである。(3)また、釈尊を崇拝する人々にとって、自ら解釈した仏教のイメージを具現化する手立てとなるのがメディアである。
自らの信仰を深め、多様な仏陀信仰を生み出す拠り所として、仏教思想の発展に大きく貢献してきたメディアには仏教の観念体系を表出し、思想的進展の仲介を果たす役割がある。ゆえに、これまで個別の分野で研究されてきた仏教メディアを、学際的観点から総合的にとらえ、その諸表現を考察することにより、仏陀の変遷するイメージを、仏教文化という統一的な枠組みの中で浮かびあがらせることができる。本研究の着想は、まさにこの点から得たものであり、それは、メディアから仏教を論じる理由でもある。
なお、近年、仏教系大学では、メディア教育が非常に重視されていることから、本研究は、仏教メディアの展開を総覧するものとしてまとめあげ、仏教に関するメディアリテラシーの向上に役立つものにしたい。

(2)研究内容
本研究では、言語による仏教聖典、視覚的な仏像や仏画、仏塔をはじめとする僧伽藍、荘厳と法具、記録化された儀礼や音楽、舞踊だけでなく、新聞、雑誌、書籍、テレビ、ラジオ、映画、絵本、紙芝居、玩具、記録媒体、インターネットなどの幅広い仏教メディアをとりあげる。
研究内容としては、古代インドから現代にいたる仏教メディアの文化的全体像を浮き彫りにし、世界の各地域に伝えられた
仏教信仰の一端を明らかにするため、巨視的観点と微視的観点の両面から研究対象を考察する。
具体的には、地域または媒体ごとに、各共同研究者が分担し、四つの課題に取り組む。
(1)仏陀の信仰形成に用いられたメディアと歴史的展開の把握。
(2)各メディアの特性を利用して表現された仏陀信仰の分析と変遷の解明
(3)仏陀のイメージをめぐる制作と受容プロセスの解明。
(4)時代や地域、共同体によって変遷する仏陀観に反映された思想、習俗、政治、経済といった文化的背景の解明。

(3)期待される成果
現代におけるメディアの発達は、仏教に情報伝達の幅広い選択肢をもたらした。しかしながら、近年の仏教徒がメディアを有効的に活用しているとは必ずしも言い切れない。どちらかといえば、急速な進歩を遂げるメディアをいかに活用すればよいか、または、自己を取り巻く膨大な仏教関連の情報をどのように処理すべきなのかという問題に迫られて
いるのが現状である。
このような状況を改善するためにも、本研究が、古代インドから現代までの、仏教メディアの変遷を振り返り、メディアが仏教をいかに表現してきたかについて再確認し、新しい動きにつながるものになればよい。
そのための具体的な目標としては、本研究において、仏教系大学のメディア教育や、仏教に関するメディアリテラシーの向上に貢献できるような成果をあげていきたいと考えている。



6 仏教メディア研究を発想した動機
(1)中村元 『インド思想史 第2版』 岩波書店 1968年11月1日
中村は、仏教の成立と展開に、時代や地域によって異なる価値観・権力・制度・経済・慣習・集団・役割関係などが深く関与していることを指摘する。
原始仏教が登場した時代は、アーリヤ人の混血化、農耕生活と都市化、王権の確立、産業と経済の発展によって、王侯貴族や富豪層が現れ、カースト制度の頂点であるバラモンの地位は低下した。伝統的なヴェーダ文化は、迷信として捉えられ始め、それと共に唯物論者・懐疑論者・快楽論者・運命論者などが登場して議論を闘わせた。また、物質的享楽に耽り、道徳の頽廃が顕著になると共に、享楽の生活に倦怠感を感じ、出家して禅定に専念する行者も多数現れた。(引用① 価値観・経済状況・権力構造・階級制度の変化)
こうした時代状況の中で生まれた原始仏教は、人間社会に存する階級区別に反対して、人間はすべて平等であると主張した。また、当時の仏教徒は、人民に対して極めて強暴な国王に批判的であった。そこで国王の支配のもとからできるだけ遠ざかり、出家者の間だけで共和政治的な理想社会(サンガ)を作り出し、その精神的感化のもとに一般社会の改革を実行しようとした。(引用② 階級制度批判・権力批判・共和政治)
 メディア研究の観点から、原始仏教をめぐる中村元の言説を考察すると、原始仏教に近現代の共和政治という概念を当てはめるなど、1968年当時の中村による解釈がみられる。もし原始仏教に、共和政治と類する制度があったとしても、それが現代と同じものではないはずである。そのように考えると、中村が記述する原始仏教は、戦後民主主義と重ねられたイメージであるといえる。

引用① 第三章 都市の興隆と自由な思索の出現
 ガンジス川上流地方に定住していたアーリヤ人はその後次第に東方へ進出し、その中流地方に移住しいたが、それとともに社会的・文化的に大きな目覚ましい変動が起こった。
 まずアーリヤ人と先住民族との混血が盛んに行われた。ここに形成された新たな民族はもはやアーリヤ人の伝統的な風習・儀礼を忠実に順守しようとはしないで、自由にほしいままにふるまった。かれらはヴェーダ文化を無視し、アーリヤ系の崩れた俗語(Prakrit)を使用していた。彼らの定住した地方は多量の農産物を産出したために、彼らの物質的生活は豊かでまた安易となり、物質が豊富になるとともに、次第に商工業が盛んとなり、多数の小都市を成立させるに至った。最初はこれらの小都市を中心に群小国家が多数併存し、そのうちの或るものは貴族政治あるいは共和政治を行っていたが、それらは次第に国王の統治する大国に併合されていく趨勢にあった。大国の首都は繁栄し、そこには壮大な都市が建造された。当時はコーサラ(Kosala)・マガダ(Magadha)・アヴァンティ(Avanti)・ヴァンサ(Vamsa)の四国が最も有力であった。これらの大国においては王権がいちじるしく伸長し、王族は人間のうちで最上者と見なされていたが、バラモンは従前ほどの威信を持っていなかった。また諸都市においては商工業が非常に発達し、貨幣経済の進展とともに莫大な富が蓄積され、商工業者たちは多数の組合を形成し、都市内の経済的実権を掌握していた。『たとい奴隷であろうとも、財宝・米穀・金銀に富んでいるならば、王族もバラモンも史庶民もかれに対して、先に起き、後に寝、進んでかれの用事をつとめ、かれの気に入ることを行い、かれには快いことばを語るであろう』(MN.vol.Ⅱ.p.85)。旧来の階級制度は崩壊しつつあった。他方物質的生活が豊かに安楽になるにつれて、ややもすれば物質的享楽に耽り、道徳の頽廃の現象もようやく顕著になった。
こういう空気のうちに生活する人々の眼には、旧来のヴェーダの宗教は単なる迷信としか映らなかった。新しい時代の動きに応じて、唯物論者・懐疑論者・快楽論者・運命論者などが輩出して議論を闘わせた。また他方では享楽の生活に倦怠感を感じ、出家して禅定に専念する行者も多数現れた。この時代に出現した新しい思想家たちを「つとめる人」(śramana samana 沙門)と称する。かれらに好都合なことは、当時は思想の自由および発表の自由が極度に容認されていた。当時の諸国王や諸都市はしばしば哲人たちの討論会を開いてかれらに自由に対論させていたが、いかなる意見を述べても処罰されることはなかった。
(pp.39-41.)

引用② 第3章 8 原始仏教
仏教は人間社会に存する階級区別に反対して、人間はすべて平等であると主張した。『世に名とし姓として挙げられるるものは、ただことばにすぎず』(Sn.648)。血統・家柄・財産を誇ってはならぬ。バラモンも徳行が高くてこそ始めて尊敬を受けるに値するという。すべての人間の平等というのことは、現実の社会においては実現され難いが、仏教教団の出家修行者の間では、徹底的に現実化されていた。出家する以前の世間的な階級的・身分的区別はすべて消滅し、みな一様に「釈子」となる。教団における席次は出家以来の修行の年数(法臘)によって、決定されていた(臘次)。そこで、原始仏教の教団には上下あらゆる階級から参加している。
国家の問題に関しては、国王は元来人民の選出したものであると当時の仏教徒は考えていた。しかし当時の国王は人民に対して極めて強暴であり、力を持って民衆を圧迫していたから、当時の仏教徒は、国王の支配のもとからできるだけ遠ざかって、まず出家者の間だけで完全な理想社会(サンガ)を作り出し、その精神的感化のもとに一般社会の改革を実行しようとした。しかし、国家を全然無視して社会理想を実現するということは、実際問題としてはついに不可能であったので、おのずから国家の指導を問題とするに至った。ゴータマはヴァッジ(Vajji)属の共和政詩を称讃したと伝えられている。仏教教団の運営方式は共和政治を模したものであった。国家は法を実現すべきものであると考えられている。
(pp.66-67.)

(2)脇本平也『宗教学入門』 講談社 1997年8月10日
従来、宗教の研究というと、思想や行為の側面が重視されて、感性的感覚の側面はあまり取り上げられない傾きがありました。一例として視覚をとりあげると、たとえば、密教の世界では、寺院の内部は色とりどりの色彩もあざやかにしつらえられており、そこで色と形に特徴のある曼荼羅をながめるのであるが、こういう視覚的曼荼羅体験が非常に重要な意味をになっている。
これに対して、同じ仏教のなかでも禅宗のほうでは、簡素な禅堂で半眼を閉じて、色なく形なき「無」を見る。つまり、視覚的なものをできるだけ遮断し、見るにしても無を見ることが尊ばれる。その点で、視覚に対する意味づけが、宗教別にかなり違っている。カトリックとプロテスタントの間にも、似たような相違があります。カトリック会堂での祈りは、色彩ゆたかな十字架像を目を開いて見上げながらおこなわれるのに対して、プロテスタントのそれは、目を閉じて垂れております。
そのほかいくつか感覚的経験の事例をあげてみますと、たとえば木魚の連続音によって心がだんだん沈潜してゆくとか、除夜の鐘の音に耳を傾けて心が洗われるとかいう聴覚経験もある。線香の匂いや花の香りというような嗅覚経験もある。あるいは禁欲・苦行によって、生理的・肉艇的に苦痛を覚える、いわば全身的な欠乏経験を強調する宗教もある。
このようにみてきますと、必ずしも認知あるいは情動の側面だけではなくて、感性的感覚経験の側面も、宗教体験において無視することのできない重要な一部分をなしていると考えられます。
(pp.123-124.)



7 先行研究
(1)服部弘一郎 編集部編『シネマの宗教美学』フィルムアート社 2003年4月10日
(2)島田裕巳『日本宗教美術史』芸術新聞社 2009年10月16日
(3)水野千依『イメージの地層―ルネサンスの図像文化における奇跡・分身・予言―』 名古屋大学出版 2011年9月23日
(4)新井一寛 岩谷彩子 葛西賢太『映像にやどる宗教 宗教をうつす映像』せりか書房 2011年6月



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大正大学 仏教文化におけるメディア研究会
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